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10年目 

Happy “牛” Year!

って、中国のNewYearCardに書いてあったのをパクりつつ、新年のごあいさつをいたします。

ちなみに、「牛」って中国語で「niu(ニゥ)」って発音する。
そして、近頃言葉で「cool」の意味もある。(以前は「酷」が「cool」の意味だったけど、もうそれは古いんだそうです。)

ってことで、2009年。

タイトルの「10年目」って、何がって言うと・・・

中国生活。

   ↓

ぶー。これはさっき数えてみたら、まだ7年と5か月だった。

正解は、Web記録をつけだしてから、ちょうど10年目。

ブログを書き出したのは2007年5月からでまだ日が浅いのだけど、実はそれまでずっとホームページを作成していた。スタートは2000年元旦。(記録としては、1999年12月29日~)

個人的にはページ編成や細かいレイアウトも全部自分で作れるHPが好きだったので、ブログ時代が始まってからもHPに拘ってブログ移行をしなかったのだけど、PCを買い替えたらHP作成用のフリーソフトが使えなくなったのを機にブログ移行を決めたのだ。

ちなみに、HPのほうは相棒に会う以前の独身謳歌時代のやりたい放題日記なので、もうメンテもしていないし、ここにリンクも貼らない。

こうやってずっとWeb記録(最近のは「日記」じゃないと思う)を書いているのだけど、ネット時代の恩恵を享受してきたと思う。

HPは瀋陽での日本語教師時代にスタートしたのだが、Webを見てくれて知り合った方がたくさんいた。
わたしが毎週末の夜、中山広場の日本語コーナーで日本語学習者と交流をしてる、と書いていたら、瀋陽に出張に来られた際、週末の夜中山広場まで来て下さり、明太子のお土産をくださった出張者の方。

同じく、わたしの日記を見て日本語学習者に会いに中山広場に来て下さった旅行者の方。
(広場に行くと、「HPの方ですよね!」とときどき声をかけられた。日本人を広場に呼べて、瀋陽で日本語を勉強している方の少しは役に立ったかな。)

わたしが教えている学生に日本の茶道を披露したい、と言って、日本から道具を持って教室まで遊びに来て下さった方。

「これから瀋陽で生活するので、行ったら会いましょう」という書き込みから始まり、今でも北京に住んでいる、今では友人となった方。

当時企業で働いていたけれど、日本語教師の夢が諦めきれず、わたしの日本語教師日記を読んでいるうちにとうとう会社を辞めてしまい、台湾で日本語教師となり、その後台湾の方と結婚されていまや台湾で一児の母になった方。(台湾に行った時にお会いした!)

その他、お会いしたことはないけれど、C―popアイドルの写真を送ってくださった方、誕生日プレゼントを毎年送ってくださる方・・・。

HPを作っていなかったら絶対にお会いできないような方々と会うことができた。
ネットについてはネガティブなイメージを持たれている方もいるが、わたし個人に関しては、HPやブログで嫌な目や怖い目にあったことは一度も無い。
もちろんそれは個人情報の流出などには注意していることもあるけれど、この10年、Webを通して楽しい出会いがたくさんあったし、人の温かさに触れることが多かった。

今後、Web記録がどのような形態に変わっていくのか分からないけれど、受け手がいる限り「わたしはここにいるよ。」という情報発信はもうちょっと続けていこうと思う。

2009年も宜しくお願いいたします!

+++

個人的記録として、HPの最初の日記を記念にUp。
(気になる方は「続きを読む」をクリックしてください。)

+++



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1999年12月29日(水)
とうとう瀋陽に着いてしまった。 
 上空から見た白く雪に埋もれた大地の景色の通り、やっぱり寒い
 わたしの所属先になる大学の先生方が空港まで迎えに来て下さり、車で大学へ。今日はマイナス5度で、暖かいんだって。はぁー…。
 1999年12月29日。青年海外協力隊中国派遣の我々12名は北京での3週間の現地訓練を終え、それぞれの赴任先へ散らばっていった。日本語教師として派遣されたわたしの任地は、中国東北地方の遼寧省瀋陽市にある中国医科大学日本語養成センターである。 
 赴任が決まった時、インターネットなどでいろいろと調べた。瀋陽とは、満洲時代奉天と呼ばれていた街であったこと、瀋陽南駅と東京駅は同じデザインであること、中国医科大学は満洲時代には満洲医科大学と呼ばれており、その校舎は上空から見ると「大日本」の形に建てられているということ。
 満洲…。反日感情は強い所なのだろうか。町を歩いていて、日本人とわかると何か言われたりするのだろうか。
 わたしは協力隊に参加する四年前に、北京で一年半語学留学をしていた。首都の北京であっても、当時日本人とわかると、スラングで冷やかす人が多かった。ここは首都ではなく地方都市だし、あの時は留学生社会に守られていたが、これからは中国人社会の中でひとりで生活していかなければならない。
 期待と不安を数値にすれば、三対七で不安の方が勝っていた。わたしはここで、上手くやっていけるのだろうか。中国人の先生たちと一緒に日本語を教えることなんて、できるのだろうか。助けてくれる人は周りにいない。自分が、がんばらないと。
 不安は車の中で早くも的中した。
 車が空港を出てしばらくすると、隣りに座った王先生という大学の日本語教師が流暢な日本語で話し掛けてきた。
 「実は、先生が来るという話は、先週知りました。今、わたし達の学校には日本人の先生が二人いますから、もう日本人の先生は来ないと思っていました。ですから、外国人の先生用のお部屋が準備できなかったので、今いる先生の誰かが部屋を出るまで、しばらくはゲストルームで生活してください。」
 がんばろう、と思った気力が萎えた。萎え落ちた。そして、枯れた。即座に。
 わたしがこの学校に派遣されると決まったのは今年の三月である。少なくとも九ヶ月前には、わたしの赴任がこの学校の担当者に連絡されていたはずである。なのに、先週?部屋が無い?
 しかも、日本人日本語教師はいない、と資料には書かれていたのに、既に二名いる?話が全然違うじゃないか。わたしの仕事は本当にあるのだろうか。
車が学校に着いたときには、寒さと不安で顔色が悪かったに違いない。
「お昼を一緒に食べましょう」ということで、12時に先生に連れられて学校の横にある海鮮レストランへ。
日本語科の11名の中国人教師のほか、主任、外事処の職員、なぜかロシア語の中国人教師、それに同じ外国人教師寮に住むことになる日本人日本語教師が2名参加しての大お食事会だった。
 主任先生の隣りの席だったので、思い切って部屋のこと、そして日本人教師のことを聞いてみた。学校側の回答はこうだった。日本側との連絡については、全て外事処がやっているので、現場の教師は何も知らなかった。恐らく外事処には3月に連絡が来ていたのだろうが、自分達に指示が下りたのは先週だった為、部屋の準備が間に合わなかった。日本人教師については、正確に言うと、今いる2名は大学の本科生を教える教師で、わたしは校内にある別組織の日本語養成センター専属教師なので、そういう意味では日本人は一人、ということになる、そういう説明だった。とにかく、わたしはここにいて良いらしい。それだけでも確認できて、安心した。
 今日は午後は会議の日だから授業は無い、ということで、中華回転テーブルに乗りきらないほどの豪華中華料理に、ビールとワインが続々登場。初めは男の先生のイッキが続いたのだが、次第に女の先生までやりだして、わたしも一緒にやらないと不高興(ブゥガオシン)不機嫌)」になってしまうので、やった。今、この部屋すら用意されていない環境で、「ノリの悪い奴」「面白くない奴」と思われるのは、立場上非常に危険だと本能で察知したからである。
 
 
 ひととおりイッキが終わると、今度はカラオケ。
 また,歌わないと「不高興!」なので、こういうときのために練習しておいたテレサ・テンの『月亮代表我的心』を中国語で歌った。「芸は身を助ける」ということは、
外国人にとっては本当に大事なことだ。
特に、このような背水の陣的状況では、知識よりも、芸がモノを言う。
下手でもなんでもやっておけば、親近感をもってもらえる。
ここでは、やれと言われれば何でもやります。
捨てるものと手にするもの比べたら、やらざるを得ないじゃないですか。()
 この宴会、12時から延々4時間続いた。忘年会も兼ねてたらしいが、ずぅぅぅっと飲むわ歌うわで、テンション上げっぱなし。わたし、途中何度も気を失いかけていた。
 部屋へ帰ったら、緊張と疲れで初ゲロ。中国は留学で慣れているといっても、仕事では初めてだし、やっぱり、すごく緊張してたんだな。
初日は中国人パワーに完敗したのだった。
 
1999年12月31日(金)
 1900年代を、こんな寒いところで一人で終わらせたくない!ということで、市役所の前の市政府広場で何かやるらしい、ということを聞きつけた同僚の日本人教師たちと出かけてみる。
 午後8時過ぎ。広場には大量の人が向かっているが,入り口のあたりで解放軍コートを着た若い男性がバリケードをつくっていて中に入れない。強引に入ろうとすると、乱暴につき返されたり、服をつかまれたりしてなんだか恐い感じ。でもよく見ていると、誰かに構っているときに隙間ができて、そこからスルっと入っている人がいる。入ってしまったらもういいらしくて、「戻れ」とは言われていない。とりあえず、真っ向から向かう人が出た隙に、兄ちゃんの背中側から抜けてみたらあっさりバリケードを突破出来た。厳重なんだかいい加減なんだか、よくわからない。
 でも、このバリケード、兄ちゃんたちも否応無しなら、入ろうとする人達も強引で、御互いに力ずくで押し合ってるから、恐かった。こんなに感情剥き出しに人と人とが、言葉通り「ぶつかり合ってる」場所なんて今の日本にほとんどない。
 そこを抜けたら後はスルっと広場には入れたけれど、特に何をやっているでもなく、中国人に聞いても、「さぁ…何もないんじゃない?」だって。じゃぁ、アンタなんで来たの?でも、中国ってそういうの、多い。広い所があると、半端じゃない数の人が訳も無くただ集まっているという現象を良く見かける。今日だって、何かあるんじゃないかっていうだけで、どんどん人が集まってきている。この時点で、数万人は集まっていたと思う。広い場所なのに、とにかくすごい人。
 9時までうろついたけれど、結局何があるのかわからなくて、気温もマイナス20度ぐらいになっていたので、諦めて帰ることにした。
 9時ちょうどにテレビ中継(ローカルだけど)が入った。広場の正面に据えられた大画面には、周りのイルミネーションが消えて学生が持っていた赤い懐中電灯が一斉に照らされている様子が映し出されている。何千何万だからテレビで見たら綺麗なのかもしれないけど、現場にいたらよくわからない。このためにみんな集まっているの?がっかりして帰路を急ぐ。
 人が本当に半端じゃない数押し寄せてきている。バリケードがより厳重になり、見に来た人達のテンションも上がってきていて、なんか非常にヤバイ感じになってきている。こんな日に帰れなかったら、本当に最悪。
 無事にタクシーを拾って、部屋に帰ってテレビで見ていたら、12時ごろに広場からもうひとつの大きな広場まで、来年の干支の龍になぞらえた電飾バスがパレードしたらしい。みんなはそれを見るために、マイナス20度の中何時間も待っていたの?しかも、それもよく知らないまま、何か起こるのをただ期待して。
 遠くに聞こえる花火の音を聞きながら、わたしは静かに2000年を迎えたのであった。

 ちなみに、中国的においては本日をもって二十世紀は終了し、世界の公式見解より一年早く二十一世紀を勝手に開始していたのであった。

 

 
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